牧師のコラム

牧師先生のコラムを通して心の糧を満たすことができる時間になりますように。

2021-09-26
信仰と理性、そして従順
信仰生活を送る中で、私たちは、信仰と理性の衝突をしばしば経験します。神様は私たちに、信仰に従って歩むことを望まれますが、私達なりの合理的な理性と世の中で受けた教育により、それを拒否してしまう時があります。愚かに感じ、また自分だけが損をするかのように感じられるからです。信仰と理性間での葛藤の問題については、キリスト教信仰の初期の頃から多くの思想家たちにより議論されてきました。フランスの哲学者であり数学者でもあったパスカルは、その問題について、このように結論を述べております。「あなたの理性が十字架に釘付けとなるその瞬間に、信仰は始まる」。イエス様も信仰と理性が葛藤した時がありました。十字架の壮絶な苦難を目前にして、イエス様は弟子達と共にグツセマネの園に祈りに行かれます。そこでイエス様は、このように祈られます。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)。これは合理的な祈りです。しかし、理性を十字架に釘付けられ、イエス様はこのように祈られました。 「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」(マタイ26:39)。3次元に住む人間には、4次元の世界である神の国を完全に理解することは不可能であります。クリスチャンだけでなく、神学者でさえ、自分の理性の尺度で聖書を判断しようとします。しかし、その結果は如何でしょうか?神学ではなく、人間の考えと思想が残るだけです。では、私たちには何が必要でしょうか?従順が必要なのです。従順とは、私たちの理性を十字架に釘付けることを意味するのです。神様は私たちに絶対的な従順を求められます。理性ではない従順を通じて、私たちの信仰をもっとまっすぐに固めて、神様の恵みをいっぱいに味わう風と火花の教会の家族となられることを、主の御名によりお祈り致します。
兪泰鎬
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